兼松の源流

創業者 兼松房治郎
西暦・和暦 年齢 略歴
1845年(弘化2) 0 5月21日、大阪で生まれる
1873年(明治6) 28 三井組銀行部大阪分店に入店
1884年(明治17) 39 大阪商船会社を創立
1887年(明治20) 42 大阪日報を買収
1889年(明治22) 44 兼松商店を創業
1890年(明治23) 45 シドニー支店開設、日豪直貿易開始
1908年(明治41) 63 日豪貿易と業界への貢献に対し、勲6等に叙せられる
1913年(大正2) 68 2月6日、自邸で永眠

兼松房治郎の生涯

人生50年と言われた時代に、44歳で豪州との貿易に大きな一歩を踏み出した兼松房治郎。彼の生き方は、日本の未来を見据えた挑戦の連続でした。
1845年、大阪で生まれた房治郎は、幕末の混乱のなか新時代の到来を予感し、武士ではなく商人として身を立てることを決意します。
時代は明治の始まり、開港場での貿易が急速に盛んになっていた1873年、28歳で三井組銀行部(現三井住友銀行)大阪分店に入店。丁稚同様のスタートでしたが、誠実かつ積極的な努力が実を結び、当時の銀行が扱っていなかった民間資金の取り扱いも導入し、多くの成果と信用を勝ち取っていきました。その後三井を退社し、1884年、大阪を中心とした海運業界の活性化を図るべく大阪商船(現商船三井)の創設に参加し取締役となります。さらに1887年には大阪日報(翌年、大阪毎日新聞に改題)を買収しました。政治権力に偏っていた当時の新聞に新風を吹き込み、産業発展のためのビジネス新聞を発行。物価表や民間業者の意見を紹介するなど新しい試みを取り入れていきました。このように、房治郎の生き方には、起業家精神や日本の産業のために尽くすという一貫した思想が貫かれていたのです。

当時、日本の貿易の9割近くは外国人商館の手に委ねられていました。房治郎は「国力の振興は貿易によるしかなく、貿易の商権はわれわれ日本人の手中に握らねばならない」という理想と希望に燃え、その目は畜産や鉱山などの宝庫であり世界一の羊毛産出国である豪州に向けられました。1887年、初めて豪州シドニーを訪れ現地を視察した房治郎は、「わが将来の活動の舞台はここにあり、国家の福利増殖の道も合わせて得られよう」と決意。そして1889年、ついに44歳にして「豪州貿易兼松房治郎商店」(現兼松)を神戸に創業。翌年、豪州に渡りシドニーに支店を開設し、国情習慣もよく分からず、信頼すべき知人もない中、牛脂・牛皮や羊毛を初めて日本へ積み出し、日豪直貿易の第一歩を踏み出しました。

その後、大恐慌など多くの困難にも遭遇しましたが、「日豪貿易を断絶させることは何としても避けなければならない」と奔走する房治郎の熱意が周囲を動かし、兼松商店は活路を見出してきました。
どのような障害に直面しようとも、信じた道を歩み続け、日豪貿易のために半生を捧げた房治郎の人生でした。

兼松房治郎語録

"豪州貿易のパイオニア"と称される房治郎の教えは、現在の経営理念に受け継がれ、今もなお兼松の社員のDNAとなっています。以下は、創業者の兼松房治郎が遺した言葉です。

「わが国の福利を増進するの分子を播種栽培す」

1889年の創業主意であり、当社の企業理念にもなっています。「わが国の経済を発展させ豊かにし、人々を幸福にするために一粒の種をまく(=事業をおこす)」という意味で、現代社会においては、日本のみならず世界中の国や地域、そこで暮らす人々を豊かで幸せにするために行動するという意思です。持続可能な開発目標(SDGs)の理念とも親和性があり、また、企業の事業活動を通じて社会的な課題を解決し、社会と共有できる価値を創造するというCSV(Creating Shared Value)の概念にも通じています。

「勤労貸方勘定主義」

報酬に気を取られて仕事への情熱を損なうならば勤労は無意味になる、と報酬にこだわらずに仕事に打ち込むことが大切だと説いたものです。房治郎の基本的精神は単に金儲けよりも、「仕事を面白がる」「仕事そのものを楽しむ」ことにありました。努力を惜しまず楽しみながら仕事をすることで、やがて利益が付随されるだろうということは利他の精神にも通ずるもので、SDGsの発想とも繋がっています。

「儲けは商売のカスである」

利益追求よりも仕事の公明性や公益性を重視し、同時に利益が自然に残るような商売をするべきであり、無理に利益を獲得するような商売を戒めているとも解釈される言葉です。「儲かりさえすれば何をしてもよい、という考えをおこすな」という教えは、現在のコンプライアンスやコーポレート・ガバナンスにも繋がる考えであり、商売・企業活動を持続的に行っていくにあたっての根底にあり続けるものです。

「お客大明神」

こうした顧客第一主義は大阪商人の伝統的かつ基本的な態度でもありましたが、当時の退廃的な居留地貿易の悪しき商慣習もあり、房治郎は商品売買の仲介業者として、売り手にも買い手にも誠実な態度で接するようにあらためて主張していました。「得意先には敬意と誠を以って当たるべし、得意先あっての兼松商店なり」と口癖のように言い、後人を指導していたといわれています。「誠」=誠実さは、現在の兼松グループの人材にも受け継がれています。