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兼松の源流

    
兼松 房治郎 (かねまつ ふさじろう)

兼松房治郎の生涯

 人生50年と言われた時代に、44歳で豪州との貿易に大きな一歩を踏み出した兼松房治郎。彼の生き方は、日本の未来を見据えた挑戦の連続でした。

 1845年、大阪で生まれた房治郎は、幕末の混乱のなか新時代の到来を予感し、武士ではなく商人として身を立てることを決意します。
 時代は明治の始まり、開港場での貿易が急速に盛んになっていた1873年、28歳で三井組銀行部(現三井住友銀行)大阪分店に入店。丁稚同様のスタートでしたが、誠実かつ積極的な努力が実を結び、当時の銀行が扱っていなかった民間資金の取り扱いも導入し、多くの成果と信用を勝ち取っていきました。その後三井を退社し、1884年、大阪を中心とした海運業界の活性化を図るべく大阪商船(現商船三井)の創設に参加し取締役となります。さらに1887年には大阪日報(翌年、大阪毎日新聞に改題)を買収しました。政治権力に偏っていた当時の新聞に新風を吹き込み、産業発展のためのビジネス新聞を発行。物価表や民間業者の意見を紹介するなど新しい試みを取り入れていきました。このように、房治郎の生き方には、起業家精神や日本の産業のために尽くすという一貫した思想が貫かれていたのです。

 当時、日本の貿易の9割近くは外国人商館の手に委ねられていました。房治郎は「国力の振興は貿易によるしかなく、貿易の商権はわれわれ日本人の手中に握らねばならない」という理想と希望に燃え、その目は畜産や鉱山などの宝庫であり世界一の羊毛産出国である豪州に向けられました。1887年、初めて豪州シドニーを訪れ現地を視察した房治郎は、「わが将来の活動の舞台はここにあり、国家の福利増殖の道も合わせて得られよう」と決意。そして1889年、ついに44歳にして「豪州貿易兼松房治郎商店」(現兼松)を神戸に創業。翌年、豪州に渡りシドニーに支店を開設し、国情習慣もよく分からず、信頼すべき知人もない中、牛脂・牛皮や羊毛を初めて日本へ積み出し、日豪直貿易の第一歩を踏み出しました。

 その後、大恐慌など多くの困難にも遭遇しましたが、「日豪貿易を断絶させることは何としても避けなければならない」と奔走する房治郎の熱意が周囲を動かし、兼松商店は活路を見出してきました。
 どのような障害に直面しようとも、信じた道を歩み続け、日豪貿易のために半生を捧げた房治郎の人生でした。 

兼松房治郎語録

“豪州貿易のパイオニア”と称される房治郎の教えは、現在の経営理念に受け継がれ、今もなお兼松の社員のDNAとなっています。以下は、創業者の兼松房治郎が遺した言葉です。


 1889年8月、房治郎が44歳にして「豪州貿易兼松房治郎商店」(現兼松)を創業した時の決意の言葉です。明治時代の日本人にとって、「わが国の福利」とは経済を発展させるための共通した社会理念で、昨今では一般公共の利益、社会貢献、国際社会への寄与、人類への貢献などに代わり、企業の経営理念として広く謳われるようになっています。房治郎は、豪州貿易によって「わが国の福利」を増大させるため、創業後、8回も豪州に渡航するなど、心血を注いで事業の発展に尽力しました。


 取引先を大切に―という精神をたたき込んだ、房治郎の口癖です。英語に置き換えると、“Customers are always right”。商売、ビジネスをしていく上でお客さまほど有り難いものはないことを表現しています。お客さまとは、仕事を教えてもらい、お金を儲けさせていただく存在であり、また、売先も仕入先も大切なお客さまです。


 房治郎はこの言葉を青年時代に教わり、生涯にわたって信条としていました。本来、労働と報酬は貸借対照表の「借方」と「貸方」のようにバランスのとれているのが正しい姿かもしれません。しかし、収入にこだわりなく、努力を出し惜しみせず、むしろ努力超過で働こうというのが房治郎の信条でした。


 商売と言えども金儲けだけの追求ではいけないという悟りと信念、人生の知恵から生まれた言葉です。明治の実業家には金儲けが自己目的ではなく事業には事業の理想があり、収益は副次的産物という思想が培われていました。房治郎はまた、「もうかりさえすれば何をしても良い、という考えを起こすな」という金銭を超えた、企業の社会的責任につながるビジネス観を持っていました。