長州に冒険商売
長州征伐に奇利を博す
翁が丁稚奉公より、足軽、武士と波乱多き生活を繰り返しつつある間に、日本帝国の形成は一変せり。
すなわち、嘉永六年[1853年]米国水師提督ペルリの浦賀に渡来してより、世の中なんとなく穏やかならず、日を経、月を累ねるにしたがいて、国論ますます沸騰し、尊皇攘夷、佐幕開港の二派は、互いにその主張をとりて、あい譲らず、ついに、安政の大獄となる。
ひいては井伊大老の暗殺[万延元年=1860年]のことあるにいたれり。
この時にあたりては天下いよいよ乱れて麻の如く、翁が横浜より大阪に帰来せしのち、いくばくもなく、あの長州征伐は起りぬ。
翁は、この天下の形勢を見て、早くも商人の金儲けをなすは、実にこの機会を利用するにしかずとなし、帰来多少の金を貯えいたるを幸い、一友人と共同して清酒を仕入れ、船を借りて長州に向かいたるは慶応二年[1866年]の春なりき。
当時長州は封鎖せられ、みだりに人の出入りを許さざりしも、翁らは、巧みにこの禁を破りて長州の港に着船したり。
かの地においては、かねて酒類に
といえども、
これ、けだし、間諜*に対する警戒に他ならずして、その待遇のごとく、さながら
越えて、八月となり、将軍家茂
これより先、外交上の紛議はほぼ収まれりといえども、征長の戦いはすこぶる困難を極め、薩長の二藩は互いに旧恨を解きて、連合の密約をなせるなど、幕府に不利なこと多き。
しかのみならず、征討の軍はようやく戦いに倦み、精鋭なる長州兵に対してしばしば利を失いし。幕府は今や、将軍の薨去を機として、征長の戦いを治めぬ。
ここにおいて、翁らも始めて自由の身となり、抑留六ヶ月にして、ようやく、大阪に帰るをえたり。
翁らがこの行いや、実に冒険なりしといえども、決して徒労にあらず、帰阪の際、翁は少なからぬ
- 慶応2年(1866年)22歳 長州(山口県)に清酒を運ぶ。長州では幕府軍の包囲で酒の入手が困難だったので、高く売れた。
自儘 に=勝手に- 間諜=スパイ
密かに大勢を観望す
かくして征長の戦いは治められたりいえども、これより諸藩、多くは将軍の命を用いず、幕府は内外多端の政務を処理するの力を失い、ついに大政を奉還するに到れり。
しかるに会津、桑名の二藩、そのほか幕臣のいまだ全く新政府に心服せざるものあり。今にも大乱起こらんかと、人心恐々としてさらに安んぜざりき。
翁もしばらく時勢の成り行きを傍観して、おもむろになす所あらんとて、伯母なる人の大阪の
しかれども、終日無為にしてあらんは、翁の好むところにあらざるをもって、同村および付近の児童に習字を教授してその日を送れり。
とかくする内、世は王政維新となり、いわゆる戊辰の諸役を経て、
これより先、函館、横浜、新潟、兵庫、長崎の五港は開港せられたりといえども、そは幕府が米国その他の強請によりてやむなく、勅許を経ずして
在 =郊外のこと- 寺子屋を開業。房治郎は、明治末に、学校教育を批判。寺子屋の長所を述べる。
初めて貿易に従事す
横浜で儲け、神戸で倒産
茨木十一村にありて久しく
今日においてこそ神戸の貿易は横浜を
翁は伊豆屋富太郎と共同し、
大阪に帰るやまもなく神戸に赴き、石炭の仲次業を始めたるに、一時は意外に儲かりも、約一年を経て不幸、倒産して元の木阿弥となりき。
- 髀ひ肉の嘆=ももの肉が肥え太ったのを嘆く。戦にでたり功名の機会がないこ とを嘆く。馬に久しく乗らないと、ももの肉が太る。
出典:三国志 - 妹尾一巳氏の推定では、房治郎が横浜で最初に儲け、神戸で倒産した年は、 慶応3年(1867年)大政奉還、王政復古。23歳。
金巾 =細く上質な綿糸で目を細かく薄地に織った綿布。ポルトガル語のカナキンの当て字