夫人と児島順蔵
夫人と家庭
夫人、名はさき子。
蘭学者、児玉順蔵氏の孫女にして、安政四年(1857年)岡山に生まれる。
不幸、幼時、父母を喪い、祖父母の薫陶を受けて人となる。
性温良にして貞淑の聞こえあり。
明治十年[1877年]、二十一歳をもって、兼松家に嫁げり。
しかるに、当時、翁は三井組銀行部の一員にして、その月に受けるところの俸給、わずかに十一円なりしと云えば、その生計の状、察すべきにあらずや。
しかるに、夫人は
翁の地位を得るにおよびても、その歴史の波乱に富めるだけ、夫人の心労は外間の得て
いわんや、去る明治四十年、翁の大患後においてや。
夫人はいわゆる世話好きにて、店員その他出入りの物を引き立て、ひたすら、その出世を見ることおよび自ら家事を処理することの二事を無上の楽しみとす。
されば、店員その他、夫人を敬慕すること、慈母も
翁の没後といえども、住吉の
- 俸給、わずかに十一円
房治郎は、結婚の前年、明治9年に、役付になっていたので、 俸給はあがっていたと思われる。 蒲柳 の身=虚弱体質- 慈母=自分の母親
祖父、児玉順蔵の略歴
夫人の祖父、児玉順蔵氏は、岡山藩の老職
年
これひそかに長崎におもむきて、オランダ人シーボルトの門に投ぜんためにて、種々の
されど、意志の堅固なる氏は、いささもこれに屈せず、かねて同館に出入りせる
常に洋書を懐にし、寸暇あればこれを
以後、蛍雪の刻苦空しからずして、
ことに蘭学に精通し、医学医術において得る所ありしは勿論、広く西洋文明の多方面に眼をさらして、会得する所すくなからざりしとなり。
しこうして、氏は長崎において、業なり郷里に帰りし。
しかれども、
しばらく備中国矢田村*に
これぞ、岡山藩に
この間、伊木家の子弟は勿論、岡山藩子弟の
しかれども、氏は元々、大志あり、一典医の家を継ぎて
時に五十四歳たりき。
しかれども、傲岸にして不屈、しかも極めて言容の朴野なるに加えて、他郷より移り住める町医の、なとて浮薄なる商人に
常に、門前
時に、貧人の治を乞うものあらば、喜んで施薬救療せるをもって、これら窮民が氏を仰ぐ、さながら神のごとく、親のごとかりき。
児玉順蔵の性向、かくのごとくなれば、浪華時人の風紀を
ただ学友の緒方洪庵と相往来するのほか、他と交遊を絶ち、ひたすら、日頃、
「医宗玉海」、「玉海擥要」、「病理淵源」、「病理各論」などの著なりしは、この時代なりきと。
かくて、児玉順蔵は、
かかる医界における偉人の孫女にして、商界の偉人、兼松翁に嫁せる。
真に奇縁と謂うべきなり。
児玉順蔵の業をおえて、長崎より帰郷、伊木家に身を寄するや、二十五歳にして備中国、
二十八歳にして一女を挙ぐ。
長じて夏井氏に嫁し、一女を生む。
これを兼松夫人さき子となす。
児玉順蔵氏、不幸、正嗣なく、その没後、荒木村以来の名家も、ために断絶するの
ここにおいて、児玉順蔵氏の門下生たりし、花房義質、黒田綱彦、石坂維寛、島村鼎甫、石井信義らの諸氏、これが再興につき、しばしばはかれるところありしも、ゆえありて、
しかるに、先年、
先帝*の親しくご統監あらせられし際、その生前の功労を思し召されし。
特に贈位の天命くだるにおよび、現存する門下諸氏、ますます児玉家再興の急務を感ずるにいたりし。
ついに、兼松夫人はや子の再甥、児玉寛二郎氏[医学士]、入って児玉家を再興することとなれり。
児玉氏は、多忙なる前途を有するの士にして、今、現に京都医科大学にありて、もっぱら研鑽中なり。
槖 駝師 =植木職人儕輩 =同輩- 備中国矢田村=現在の岡山県新見市哲西町矢田地区
蟹行 文字=横文字のこと。蟹 は横歩きする。嚆矢 =ものごとの初め贄 を執る=授業料を持ってくる- 門前
雀羅 を張る=ひっそりしていて閑散と寂しいこと。門の前に鳥網 を張る。鳥網で雀を捕えられるほど人の出入りが少ない。 蘊蓄 *=奥義、秘術轗軻 不遇=ふさわしい地位や境遇に恵まれない。轗軻 は平坦でない道- 羽子板橋=大阪市西区にあった京町堀川の橋のひとつ
草廬 =草葺きのいおり荏苒 =歳月が進んでも延び延び吉備 の野に、大演習ご挙行=1910年11月、岡山県吉備平野で行われた陸軍大演習- 先帝=明治天皇