兼松商店設立

かねて画策せる日濠(にちごう)[オーストラリア]貿易開始の機、(いた)るや、大阪商船会社の重役を辞し、新聞事業は他に譲りて、もっぱら、日濠貿易にその身を委ねることとなれり。
その翁が、日濠貿易を企てたる動機やいかん。
翁の歴史はこれよりいよいよ、蔗境(しゃきょう)に進まん*とす。

日濠貿易企画の動機

今やわが国の対外貿易は、著しく発達を遂げ、輸出入価格十有億円の巨額に達するにいたれるも、明治十八、九年の交易は七、八千万円を算するに過ぎざりき。
しこうして、対外貿易の商権は居留外人の掌握する所となり、わが貿易同業者のごときわずかに、居留外人の注文によりて、物品を供給するの状態にあり。

当時の日本の貿易の多くは、横浜や神戸の外商(居留外人商社)が行い、貿易といっても外商との国内売買が殆どであった。

当時の日本輸出入総額(単位:百万円)と、外商の取り扱い比率

西暦 明治 輸出 輸入 合計 外商の取扱比率
1877 10年 23 27 50 97.4%
1887 20年 52 44 96 87.6%
1888 21年 65 65 130
1889 22年 70 66 136
1890 23年 56 81 137
1891 24年 79 62 141
1892 25年 91 71 162 80.4%

兼松60年史より
1889年、明治22年、兼松商店創立

従って、同業者の貿易に対する感念もまた幼稚なるものにして、直接外国貿易に従事するものは、三井物産、その他五指を屈するに足らず、一般に外国貿易は外人の手を経ざれば営まれざるものと信じたる程なりき。
しかるに、翁は当時日本米の濠州に輸出さるるを聞くや、ふと、濠州を研究するの念おこり、直ちにこれが調査に着手したるに、濠州は鉱物、畜産に富み、なかんずく、羊毛のごとき世界に冠たるを知りぬ。
ここにおいてか、翁つらつら考うらく、

  • 「我が商工業は、いまだ、幼稚の域にあり、紡績会社のごとき、一、二、その設立ありも、その製産額のごとき、云うにたらず。
    内地において需要する綿糸の殆ど全部は、これの供給を外国に仰ぐの状態なり。
    (当時、わが国における紡績会社は、三軒家*および浪速紡績会社などにとどまり、その総錘数がたった三、四万に達せりという位で、世人を驚かしたる時代なり。)
    しかれど、綿糸の需要は日に多きを加えつつあれば、早晩、紡績業の勃興すべき、あえて疑うべきにあらず。
    しこうして、その紡績に次いでわが国に起こるべきは、毛織業なるべく、果たして、毛織業にして起こらんか、さしあたりその原料たる羊毛なかるべかず。
    されば、今において、濠州と直接貿易を開始し、わが国より米その他の物品を輸出し、彼の地よりは羊毛を始め、特産品を輸入することとせば、国家の利益少なからざるべし。
    幸いにして大阪商船会社の事業もほぼ諸につきたり。
    我はこれより進んで一身を濠州貿易に委ねるべし」と。

翁が濠州貿易に志しせし動機は実にここにあり。
この時早くも、翁は日濠貿易をもって終生の事業とせんことを心に期したりしなり。
しかも、十八、九年の交易においては本邦より濠州への輸出高約十余万円、彼の国より輸入するもの僅か三万余円に過ぎず。
当時、誰か今日の日濠貿易の盛況を想うものあらんや。
翁の先見の明あるは、おおむねこの類なり。

  • 蔗境(しゃきょう)に進む=だんだん、面白くなること。顧愷之(こがいし)が、甘蔗(サトーキビ)を食うごとに、いつも末から食い、根本に到り、ようやく、うまくなってくると言ったという故事にもとづく
  • 外国側に支店を置き、外国との直取引を、兼松房治郎は目指した。三軒家は、のちの東洋紡績

初めての濠州渡航

翁はかくのごとくにして、日濠貿易に従事せんとを思い立ちたりといえども、ただ書物につきて研究し、もしくは他人の言に聴きたるのみにては、充分、信をおきがたきものあるをもって、実地に赴きて、これが調査を遂げ、しかる後に従事するも遅からずと考えし。
まず実地視察のため、羊毛の主産地たるニューサウスウェールズ州に渡航することとし、従来関係ある諸会社の役員を辞し、初めて渡濠の途につきしは明治二十年[1887年]十一月なりき。
翁はまずニューサウスウェールズ州の首府シドニーに着し、同地を根拠として各方面につき、親しく視察を遂げたる。
当時、濠州は有名なる金鉱発見後、いまだ多くの年所を経ず、いわゆる新開の地なりといえども、シドニーおよびヴィクトリア州の主府メルボルンのごとき、商業実に繁栄を極め、鉱物および畜産に富めるは予想外なりし。
これをもって、日濠貿易の前途、極めて、有望なるを確認し、駐まること約半歳にして、ひとまず帰朝の途につけり。

  • 房治郎は、合計8回、渡濠した。1回目の渡濠から帰国後、大阪毎日新聞の主幹となり、立て直しに奔走したことは、前ページで述べた通り。結局、その負債を年賦で払うことで、本山彦一氏に新聞社を譲ったことも前ページで述べた通り。
    日濠貿易の方を優先するべきと考えたのだろう。

単独、日濠貿易開始を決す

帰朝の後、翁は知己友人につき、日濠貿易の予期のごとく、有望なる旨を、諄々(じゅんじゅん)説示して、熱心に勧誘を試みたり。
しかれども、当時わが国財界不況におちいり、既設会社にして破綻するもの続出せるありさまなるより、さきに翁が渡濠の際、あらかじめ出資を約せし人々も今は躊躇(ちゅうちょ)してこれに応ずるを欲せず、かえって翁の決心をひるがえさんことをこいねがえり。
その反対の趣旨は、

  • 「翁は今、相当の地位にありて、その年々の収入も少なからず、かつ、日進月歩の今日、わが国において着手すべきの事業また少なしとせず、いながらにして前途すこぶる洋々たるものあり。
    しかるを何を苦しんでか、かかる冒険をあえてするや」と、
    云うにありき。

翁はいかに彼らを説くも悟るや、憤然として単独に本事業を開始せんと決意し、従来、所有せし諸株券はもちろん、中之島にありし1800余坪の地および倉庫、建物を売却す。
これに住友家[廣瀬宰平氏名義]より一万円、西村虎四郎氏より五千円、藤田鹿太郎、藤本清兵衛の両氏[故人]より各2500円づつ、合計二万円の出資を合して三万余円を得たれば、着々準備の歩を進めたり。
もっともこの資金は数年の後、相当の利息は添えて返却したりき。
友人らは最初はしきりに翁に対して忠告を試みたるも、到底その志の奪うべからざるを知るや、口をつぐみて重ねていさめず、中には絶交の宣言をなすものすらありき。
この一事をもっても、当時、翁の計画のいかに世人に冒険視せられしかを知るべきなり。

  • 大阪中之島の土地1800坪は、現在の日本銀行の裏手にあった。他に、玉江町に薪炭事業をやったときの倉庫があり、これも処分した。

日濠貿易の看板を掲ぐ

翁の決心はいよいよ堅く、その準備も着々整い来たりて、ともかくその店舗を設けざるべからざることとなれり。
されど、大阪の地は不便なるをもって、神戸に設置することとし、阪地を引き払いて神戸栄町五丁目に、初めて濠州貿易の看板を掲げたるは、明治二十二年[1889年]八月なりき。
しこうして、店舗は間口二間半、奥行五間、店の間わずかに四畳半、これに台所三畳と二階に六畳の座敷のみなる一小屋に過ぎずして、しかもその家賃は十円なりき。
当時店員は、北村寅之助氏[現兼松濠州支配人]の他、古川某のみにして一人の小僧をも使用せず。
兼松本店の前支配人の原幸治郎、現支配人の古立直吉氏らの入店せしは、その後の事なりし。
後しばらく代議士の故・本城安次郎氏の小僧代に従事せしことありしくらいなり。
食事のごとき、店主も在店の間は店員と同じく、三食十銭の弁当をもってこれにあてたり。
ただに店舗の狭隘なるのみならず、翁の花隈(はなくま)の住宅また九円五十銭の家賃にして、もとより大阪時代の住宅に比すべくもあらず。
翁の親友某氏などのごとき、その変化のあまりに甚だしきをみて、兼松はいよいよ発狂したりと嗟嘆(さたん)したる程なりきとぞ。

  • 兼松商店の創立は、1889年8月15日。翁45歳。現在の兼松株式会社は、1889年を創業の年とし、8月15日を創立記念日としている。翁45歳。
  • 創立時の店舗は、神戸市栄町五丁目にあり。創立した看板名は、濠州貿易兼松房治郎商店
  • 創業の8月には、北村寅之助氏の他に小僧1名だったが、その1889年の年末には、丁稚、小僧を増やし、9名になった。岡山、大分に出張して、濠州に輸出する陶器、漆器、竹器などの雑貨を仕入れた。
  • 花隈(はなくま)=神戸市中央区