濠州恐慌で窮迫

(掲者注)
羊毛だけの扱い量に限れば、兼松商店の創業当初の推移は下記の通り。
羊毛の刈り取りと出荷にはシーズンがあり、北半球の秋から春がそれにあたる。 従って、年度表示が、2年にまたがる。

年度
1890-1891 200
1891-1892 0
1892-1893 300
1893-1894 500
1894-1895 1,388
1895-1896 4,454

兼松房治郎の初期の頃の渡濠年月は下記の通り。
1次 1887 明治20年11月 出発 調査目的 43歳
  1888 明治21年6月 帰国 44歳
2次 1890 明治23年1月 出発 貿易開始 46歳
  1890 明治23年8月 帰国 46歳
3次 1891 明治24年5月 出発 47歳
  1891 明治24年10月 帰国 47歳
4次 1892 明治25年 48歳
  1894 明治27年2月 帰国 50歳

折も折とて、濠州経済界の大恐慌は来たれり。
翁が生涯に遭遇したる幾多の困難中、最も痛苦を感じたるは、実にこの(とき)なりしなり。
嗚呼(ああ)、天の翁に禍いする、何ぞ(しか)(しき)りなるや?

  • 兼松房治郎の死後に寄せられた追憶の記で、 廣瀬満正氏は、下記のように書いている。
    「元来、翁が日濠貿易を企てたる目的は、輸入よりも輸出に重きを置きたりし、・・・」
    従って、創業時、日本から濠州に輸出した商品(米穀および雑貨品)があり、濠州客先に対する売り掛け金が あった。
    なお、廣瀬満正氏は、 住友家初代総理事を勤めた廣瀬宰平氏の長男。廣瀬宰平氏は、日濠貿易を開始する兼松房治郎に一万円を投資した。

濠州の大恐慌

1893年[明治二十六年]における濠州経済界の大恐慌は実に非常なるものなりき。
小資本の銀行、会社もしくは商店はいうもさらなり。
幾千万の資本を有し、幾百万の積立金を擁して、昨日までは殷賑(いんしん)の街区に、輪奐(りんかん)*たる店舗を構え、その基礎強固なりと聞こえたる大銀行、大会社といえども、破産倒産するもの陸続、(きびす)を接し、その惨憺たる光景は実に名状すべからず。
いうまでもなく、翁もまたその渦中に巻き込まれたる一人なり。
取引先には少なからぬ売掛代金ありといえども、かかる状態なれば、これを回収し()べくもあらず。
しかるに、一方取引銀行よりは、その貸し金の返済をせまり来たること頻りなり。
さりとて、この混雑中、売るべき貨物はありといえども、これを買わんとするものなし。
また商店の信用をもって、金の融通を求めんとするも、さらにこれに応ずるものなし。
ここにおいて、金融の途は、はたととまりて、いかんともするあたわざるにいたりぬ。

  • 輪奐(りんかん)=建築の宏大、壮麗なこと。「輪」は曲折して高大の意味。「奐」は大きく盛んの意味。
  • シドニー支店は、日本からの米、雑貨などの在庫を擁して換金できず、荷為替期日が迫っていた。

兼松商店の窮迫

しかるに、恐慌の区域は拡大を加え、倒産者また、ますます、その数を増し来たるのみにて、兼松商店の運命も今や旦夕(たんせき)*を測るべからざるの悲境におちいりぬ。
この時、翁らは百方策尽きて、絶望のあまり、ブランデー、ウィスキーのごとき火酒の力を借り、しいてその苦悶を()らんことを努めたり。
翁らが千辛万苦、ようやくにして開かんとせる濠州貿易の(つぼみ)も、今やあわれ、一朝の嵐に吹きちらされんとす。
思い、ここに到れば、さすがの翁もうたた断腸の思いあり。
身は寝台に横たわるといえども、転々反側(はんそく)して、終夜一睡をだも結ぶあたわざりしこと、数夜に及べり。
しかれども、翁の剛毅勇敢なる、いつまでもかくてあるべき。
決然としてひとつの活路を開くべく、かねて取引ある某銀行に赴き、支配人にその事情を述べて、手形の延期を請えり。
この時に際して翁のとるべき策は、ただこの一事ありしのみ。
翁は曰く、

  • 日濠貿易は、いまだ隆盛の域に達するを得ずといえども、その今日あるを致したるは、不肖、房治郎の微力あずかりて力あるを信ず。
    予がこの事業を開始してよりここに幾年、常に、一意専心、不屈不(とう)の精神をもって努力しつつある所以(ゆえん)のもの、詮じつめれば、両国貿易の発展を計らんとするのほか、さらに何らの野心あるにあらず。
    しかるに今や大恐慌に際し、この手形を期日に支払わざるべからずとせば、兼松商店は遺憾ながら閉店するのほかなし。
    果たして(しか)らんか、せっかく今日まで発達し来たりし日濠貿易は、ために中絶するにいたるべし。貴下、幸いに我が意のあるところを察し、もって日濠貿易のために寛大なる処置をとれ。

この翁の請求に対する支配人の「イエス、ノー」の答辞こそ、実に兼松商店の興廃の(わか)るるところにして、兼松商店の運命は一にかかりて、この支配人の一言にあり。
されど、この時、翁の吐ける言々句々、ことごとく肺腑(はいふ)より出で、その舌端、真に焔を噴けるがごとく、声涙ともに下るの(がい)*ありき。
支配人の黙して、翁の愁訴を傾聴したりしが、実に熱心は雄弁なり。
その言辞の悲愴沈痛なる、彼の志を動かしけん。
ややあって、彼は口を開いて曰く、「諾。期日の猶予を与えうべし」と。
この答辞を聴きし時の翁の心中、果たして如何。
手の舞い、足の踏むところを知らざりき。
後日、翁は、当時のことを追懐して曰く

  • 「予が彼の時、支配人に談判せしは、大なる覚悟を有せしは勿論なり。
    有り(てい)に云えば、もし予の言にして聴かれずんば、自殺するのほかなしとまで決心せり。
    しかも予のごとき、覚束なき英語をもってして、容易にその精神が彼に徹底せんとは予期せざる所なりし。
    しかるに、彼がごとく速やかに承諾を得たるには、むしろ案外の思いをなせり。

これ、つまるところ、その決心の異常なりしがためにして、かくのごとくその決心の大なりしだけ、その喜びもまた非常なるや言を()たず。
この恐慌の際における予が苦痛と喜悦とは、今日にいたるまで、()()の間も、忘れんと欲して忘るあたわざるところなり」と。
この時における翁らの困難の状、想うべきなり。

  • 旦夕(たんせき)を測る=滅亡が明日の(あさ)かこの(ゆうべ)かを測る
  • 兼松房治郎の死後に寄せた追憶の記で、神田兵右衛門氏は、下記のように書いてある。
    「翁は、酒を飲まざりしが、義太夫、端唄その他凡て音曲を好み・・・」
    酒を飲まない房治郎も、この時は、ブランデー、ウィスキーに頼ったと思われる。
  • (がい)=なげき

窮境を脱してひとまず帰朝す

兼松商店創業当時の翁。
明治22年(1889年)、45歳。

一時は、到底、破産は免れざるべしと観念せる兼松商店も、幸いに銀行支配人の同情によりて、その命脈を保つことを得。
一方においては、さしもの大恐慌も英本国政府の措置よろしきを得たるをもって、いくばくもなく、終熄(しゅうそく)せし。
一般経済界もようやく沈静に帰したり。
翁はこれを一段落とし、後事は北村氏に託して、ひとまず帰朝することとなれり。
時に明治二十七年[1894年]二月なりき。
この時における翁の境遇は、あたかも敵の重囲を斬り抜け、かろうじて一条の活路を見いだせる敗将のそれにも似たれば、その身装(みなり)のごとき、実にみすぼらしく、靴は破れ、洋服は数年前のそのままにて、ほとんど襤褸(つづれ)と見まがうばかりなりき。
しかれば、かっては錦衣帰郷を想像して出迎える友人知己は、この変り果てたるさまを見、呆然としてその言うところを知らず。
中にはあまりのことに涙を()んで握手をしたるものさえありきとぞ。
最初、翁が日濠貿易を開始せる際、これを諫止(かんし)せんとせし友人も、翁の決心の堅きをみて、以後その成り行を観望したりしに、今、その窮状を見るに及んで、友情禁ずるあたわず、ふたたび、忠告せんことを発起せるものありたり。
されど、翁の気質を熟知せる彼らは、協議の上、

  • 「今、忠言を繰り返すも、さりとて、ただちに意志をひるがえすべき彼にあらず。よろしく、彼みずから後悔するの時を()ちて、善後策を講ずべし。」

とて、しばらく放棄し置くこととなしぬ。
翁といえども決して友人の真情を(りょう)とせざるにあらず。
濠州において恐慌のために受けたる打撃は尋常ならざるものあり。
しかも、ひとりの後援者も居ないし、内心の痛苦、真に堪えがたきものありしならんといえども、翁の意志の牢固たる、鉄石も(ただ)ならず。
かかる大困難に遭遇するも、いささかも逡巡するなく、その失敗はかえって実験素養の資となり、以後、その経営よろしきをえて、着々、その歩を成功の域に進むるにいたれり。

  • この時、オーストラリアは、イギリスの植民地。従って、英本国政府の措置云々の表現になる。自治領となるのは1901年。
  • 襤褸(つづれ)=ぼろ着
  • 房治郎と共に、渡濠した北村寅之助は、その後、シドニー支店長として駐在を続けた。その生涯をシドニーに過ごしたと思われる。また、1916年(大正5年)に、ローソンの町に吉野桜を寄付したらしい。これは日濠の草の根交流の原点といわれる。
    2008年5月に、北村寅之助の子孫のミッキー北村氏が、再度、植樹をした。その記念の写真を参照ください。

最初、200俵から始めた、濠州から日本への羊毛の輸出(日本にとっては輸入)も、明治44年には、25,000俵を越えるようになった。
当初は、兼松商店だけが輸入をしていたが、後年、他の商社も参加し始めた。
但し、神戸大学の資料では、明治44年でも兼松の輸入量は全体の64%となっていた。
兼松商店の成功度合いが、実感できる。
兼松房治郎は、オーストラリアに渡ること、終生で合計8回